- 2016.09.27 Tuesday
- moto・・・・モトグッチ・整備など
今回の工場見学は、入り口から奥をのぞきこむ程度で、以前のように工作機械や製造ラインのあいだを練り歩くようなことはできませんでした。なので画像がほとんどありません。
上の画像で空き地の光景は<番外の1>の4枚目の画像の黒いアーチをくぐった先のものです。なにかガランとしたちょっと寂しい光景です。かつてここには旋盤など金属加工機械が並んだ部品工場の建屋がありました。私が2度めにマンデッロを訪れた1996年のモトグッチ・デイで、ここに入ると旋盤の1台にやけに長いカムシャフトがセットされてるのをオーナーズクラブジャパンのメンバーが発見しました。「これはV6のカムじゃ?」と、みんなで覗き込んでいると工場のスタッフがやってきて「マセラーティのカムシャフトだよ・・・」と。「おお〜」マセラーティから委嘱されて造っていたのでしょうか?細かいところはわかりませんでしたが、モトグッチの工業力の幅かくあらん!と背景の想像が膨らむひと幕でした。ですがその建屋もいまはありません。
この建屋は2〜3年前でしたか、モトグッチがピアッジオ傘下に入ったあと(正確には当時親会社のアプリリアが破綻してともどもピアッジオ傘下に・・・)壊されました。モトグッチの古い資料には年代ごとに徐々に拡張してゆく本社と工場の平面図(や空撮写真)の比較が載せられています。が、恐らくは合理化の名のもとに、長い歴史の中で初めてなにかが削られたことになります。
それにしてもこの広大な面積の建屋にあった工作機械はピアッジオに移されたのでしょうか?この工程が無くなったことによって相当な人員削減も当然あったことでしょう。
上の画像は空き地の写る画像の場所から180度振り返ったところです。小さなステージが作られて、音楽など流れていましたがこれといってプログラムの発表もありませんでしたので、その内容はわかりません。また、V7シリーズなど試乗車が並べられ軽食の出店などもありました。いままで工場敷地内にステージや飲食店が置かれたことはなく(いままで、と書きましたが私が最後に行ったのは10年前、2011年のイベントにはとても行く気になれませんでしたのでその年のイベントの様子は知りません)、一方湖岸の街の公園にはいままで同様大きなイベント会場が作られていて・・・・・このあたり、イタリアに来る前から感じていたいままでとは異なる空気を如実にあらわしていたのです。
このラドゥーノに参加するには春あたりから宿泊予約するなど準備を始めなくては間に合いません。ちょうどそのころモトグッチのホームページにも日程などアナウンスが載せられるのです。それが今年は特に記載が無く月日が過ぎていました。
V65輸送の手続きの途中で、イタリアの税関から「参加するイベントの資料提出」を要求された(イタリアに輸入したものをそのまま輸出することを証明して非課税にするため)6月も、マンデッロの複数のモトクラブが連名で主催する「インターナショナル・モト・ラドゥーノ チッタ・デッラ・モトグッチ(シティオブモトグッチ)」が発表したプログラムしか見つけられず、やむなくそれを資料として提出したのでした。
それが、もうラドゥーノ来月だよ!というタイミングになってようやくOPEN HOUSE(オペンホウセではありません、笑)の案内がモトグッチのホームページに載せられました。チッタデッラモトグッチとオープンハウス、ふ〜ん、なんだかなあ?と思っていたのが、現地に来てみてわかったのでした。
・・・・・いままではモトグッチ社が主催してモトグッチ・ディやGMGという名称で5年おきのアニバーサリーイベントを催してきました。が、今回はマンデッロにある全てのモトクラブが初めて合同で主催する、言うなれば市民が主催するモト・ラドゥーノだったのです。オープンハウスはそれにあわせて工場等を開放した、ということなのでした。
モトグッチ社はイベントに対して力が抜けちゃったのでしょうか?そのゆとりが無いのでしょうか?それとも元締めピアッジオ様が古いモトに乗ってる連中なんか相手にするなと指導してるんでしょうか?(まさか!)
今回私がわざわざモト・ラドゥーノ(訳してオートバイの集会・・・・・なんて言うと違う集会を連想しますが・・・)などと日本では聞きなれない言い方を繰り返しているのはこういう経緯があったのです。もっともイタリアのグッチスティはその昔GMGのころからラドゥーノと言ってましたけど。
また少し、イベントの様子を書きましょう。土曜の夜は9時ころから湖に浮かべたボートから花火を打ち上げていました。日本の花火に慣れた目には小さく控えめな花火でしたがキレイでしたよ!たくさんの酔っぱライダーたちがゆるんだ目を空に向けて花火を楽しみました。
市庁舎の前はサーカスのような雰囲気。これはウォール・オブ・デス!あの中をバイクで走り回るのです。モルモットが遊ぶコロコロを横にしたみたいなアレです。常に行列なので見られませんでしたが、ミラノに帰る直前にウォール・オブ・デスのライダーと会いました。「で、モトはなにを使ったの?」「インディアンさ」「あ、そ・・・・・」(笑)
この時に機を合わせて発刊された本も売っていました。
GUZZI l'idea che ha cambiato Mandello
グッチ マンデッロに変化をもたらした着想
訳してみるとこういったところでしょうか。モトグッチとマンデッロの深く長いつながりを感じさせずにいられない本です。そしてこれを売ってた売店のおばちゃんが「あなた12月にまた来てね」というのです。「だってこれは1巻よ、第2巻が12月に出るんだから買いに来てね!」なんだそうです・・・・・。無理です。
この本にマンデッロの街の名所旧跡のガイドがセットされていました。画像にもあるように街のあちこちに看板もたてられています。靴にからみついた竜のようなのはなんなんだろう?と帰国後に調べてみました。そうしたらマンデッロにもパルチザンの歴史があったのです。登山靴に半ズボンの勇猛な山のパルチザンにからみつく化け物をあらわしていたのでした。
1943年9月、イタリア降伏と同盟脱退が露見するとともに侵攻してきたナチス軍への抵抗を宣言したバドーリョ将軍(当時首相、降伏に導いた)に従ったマンデッロの軍人70人、結果捕まってしまうも抵抗を重ね、正規の戦争捕虜として扱われずヨーロッパ各地の収容所で使役にこき使われ厳しい生活条件に耐え、米ソによる解放後もつらい転変の旅を果たして帰国したそうです。
マンデッロ滞在の最終日には幸運にも市長とお話することができました。なんと28歳(以前は21歳の市長もいたそうです!)のリッカルド・ファソーリ市長、午前中からバールで友達とビール飲んでました(笑)
「実は市で運営するムゼオ(モトグッチ博物館)を作りたいんだ。工場は週末は閉まっちゃうからお客さんが入れないんだよ」と、ちょっとした展望も語ってくれました。言外に「モトグッチのほうの方針はコロコロ変わるからさ、自前で対処できるようにしとかないと」というようなものを感じたのは、私の見方がうがち過ぎましたか?
小さな街がモトグッチとともに、というのは初めてここを訪れたときから感じていたことです。街中のショーケースにモトグッチ、店の前にモトグッチ、これらの車輌はモトグッチ社から貸与されたんじゃないんですよ!!みんながモトグッチオーナー。ほんとうにモトグッチに対して誇りを持っています。先のパルチザンの歴史にも感じさせる山の民の気骨が「会社(モトグッチはたまたピアッジオ?)ができないなら俺達がやってやるぜ」と今回の街とクラブの協力によるイベント主催を成功させたのかもしれません。
あ、こんなふうに書いてるので、誤解が無いように付け加えておきますが、モトグッチVSマンデッロという構図があるかのように見えますが、心配無用です!!モトグッチの従業員はマンデレージ(マンデッロびと)や周辺の街街の方ですし、街のおじいちゃんもおばあちゃんもみんな昔働いていた・・・・・現在の社員に対して我が孫を見るように優しく、後輩に対するように厳しくも温かく接する方々なのです。
それに私が見てきてこうして書いていることも外見的なものにすぎず、たとえば各イベントの資金の出資元もどうなっているか知らないのですから。
最後に今回出あった鷲の仲間たち。100周年にも来るんだろ?と皆に念を押されましたが、ハテ?それまでに今回のローンを完済してるものやら?
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