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Raduno Centenario

PaoloRossoMandello
 

9月7日から11日まで、聖地マンデッロ・デル・ラーリオでラドゥーノ・チェンテナーリオ、1年遅れの100周年集会が開かれました。私も行きたかった・・・・・行くはずでした。でも直前に発熱しただけで飛行機に搭乗できない、渡航できない、ましてや帰国できないというのはリスクが高すぎるので断念しました。そのかわり、SNS友人のパオロ(上の画像、左の男性)がたくさんの写真を送ってくれましたので、一部を紹介します。
 
ちなみに10日土曜日はモトグッチワールドクラブのマリオ会長の呼びかけで山の上のリストランテ、アル・ヴェルデで食事会がありました。残念ながら参加できないので、20数年前にもらったワイン「ロッソマンデッロ」をついに開けました。
そんなに強いワインでもなさそうだったので適当な時期に飲まなきゃ飲まなきゃと思ってたのですがもったいなくて開けられず、さほど良くない環境で月日が経ってしまいました。でもギリギリいただけましたよ!
 
では以下、ラドゥーノの様子です。

 
Calro
 

市庁舎広場のカルロ・グッチの像。みながここで記念写真を撮ります。


 
V100Mandello
 

ガレッリア・デル・ヴェントに飾られた最新作V100Mandello
今回早くもこれに乗ってマンデッロに来てる方もいました。


 
Sport 15
 

Sport15、1930年代製
インテークバルブはサイドバルブ、エキゾーストバルブはオーバーヘッドという配置がされています。温度が高いエキゾーストバルブを最も風が当たる場所に置いた叡智!

 
gt17
  

1932年から初めて軍用として作り出したG.T.17。タンク上にマシンガンをセットしたモデルで有名です。
この方6年前もこの姿で参加されていました。軍装のことがよくわかりませんが、色の様子から北アフリカ戦線のものを模したのでしょうか?

 
griso
 

1200スポルトのカスタム
思い切ったデザイン。乗り心地が心配です。笑

 
dngo
 

50ccのディンゴ(1963−1976)のカスタム
エンジンと前後ホイール、前後サス、スイングアームとステップ周り以外はすべてカスタム、フレームも作っています。

 
sohc01
 

世にスモールブロックと言われている、イノチェンティ工場から送り出された小排気量系エンジンのモデルでこんなにヘヴィな改造をしてるのは珍しいです。
原型を留めているのはクランクケースとトランスミッションとスイングアームのみ、クランクケースの地肌やスイングアームを見るとベース車両はフロリダあたりかと思います。

 
sohc02
 

シリンダーは現在のV7のものでしょうか? 小さなカムカバーが載っています。SOHCにしてカムシャフトをベルトで駆動しているのでしょうが、プーリーは元のカムシャフトにつけているのかもしれません。このカムシャフトの位置からバルブ配置は改造前と同様で、元々のピストンヘッド燃焼室を利用しているのでしょう。ロッカーアームを廃した効果がどれほどあったのか興味あります。
ヘッドの形状がもう少しわかるとよいのですが。別の角度の写真を見てみたいものです。


 
mssimo01
 

1000SPのカスタム”ENZO”
エンツォというのは一般に男性の名前です。剣という意味が含まれているとか。
https://www.facebook.com/fuchsworkshop/

 
massimo02
 

カフェレーサーENZOを作ったマッシモは左端の男性。ラヴェンナ在住。実は何年か前に日本に観光に来たとき私を訪ねてきてくれました。イタリア人が日本に来たら私は必ず三鷹の中華そばみたかか、吉祥寺のハーモニカ横丁か、その両方かに連れて行きます。マッシモとも夜の横丁でハシゴ酒しました。笑
今回マンデッロで会えたらよかったのですが、叶いませんでした。残念!

mas

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La rivista dei guzzisti

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イタリアで季刊発行されている「La Rivista dei Guzzisti」(=Guzzist Magazine)の80号、2022年4月号の「人物紹介」に載せていただきました。MOTO・GUZZIワールドクラブに入会されている方の元には届いていることと思います。
 
本文にもありますがたまたまSNSを通じて知り合って、その後2016年の95周年イベントでは実際に会うことができたロベルト・ポレッリはモータージャーナリストでした。それで彼が毎号受け持つページを私に割いてくれました。ひとつは二輪車も四輪車も、たくさんのメーカーが世界に輸出してた日本でGUZZIに乗ってるのが不思議でしょうがないのでしょう。そしてもうひとつは私がちょいちょい(と言っても5年おき笑)マンデッロに出現しているので目についたのでしょうか。
 
以下はその記事の和訳になります。もとは私がインタビューされたものでその原稿が手元にありますが、彼がどのように書いたかを知りたいのでそちらに忠実に、いえ完璧な和訳という自信はありませんが訳してみました。ご覧になってみてください。


 
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<日出る国の鷲たち>
ロベルト・ポレッリ
日本から、GUZZIへの強い情熱
 
我々とは全く異なる遠くの人々とじかにコンタクトがとれるソーシャルネットワークのチカラに感謝している。何年か前、とある編集の仕事のために白のカリフォルニアの写真を探してたくさんのグループに相談していたのだが、それに応えてすぐさま写真を送ってくれたのは、ある親切な日本人だった。その後ネットでのやり取りを始めて、マンデッロ・デル・ラーリオのモト[1]への情熱を分かち合い、集会の際にはエマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローディ通りの赤い鉄柵[2]の前で私たちは実際に会った。ラーリオの地に立つ、東京のナンバープレートをつけた彼のGUZZIは、私の長いライダー人生のうちでも心に迫る姿だった。
 
友、Massi、1964年生まれ、実際にはタカヒロ・マスモトという。彼のあだ名はイタリアで起こった愉快なエピソードに由来がある。
 
2001年、彼がサン・ベネデット・デル・トロントまでカリフォルニアで走ったとき、料金所に着いたら通行券が失くなっていた。料金所の係員は料金不足分を支払うための書類を作らねばならず名を尋ね、彼は日本でいつもするように苗字だけ「マスモト」と伝えた。ブラヴォーなその料金係はそれを聞いて「マッシ・モト」と書いた徴収票を手渡したのだった。その後、彼の友人たちは(GUZZISTA[3]もそれ以外も)彼のことをMassiと呼ぶようになった。
 
この友である日本人は東京のモトグッチ・リパラーレという名の、完全にGUZZI専門の工場でメカニックとして働いている。
 
「僕は19歳だった1983年にモトに乗り始めた。その少しあとにモーターサイクリストという日本の雑誌の輸入車の記事を読み、V35イモラの存在を知った。このときから文字通りGUZZIに憑りつかれることになった。とりわけ僕の免許で乗れる数少ないイタリアのモトであったことも大きい。
 
1987年にはついに鷲の実物を見に行った。とてもドキドキしたのを覚えている。こうして僕の最初のGUZZI、V35イモラ2と出会ったのだ。たった1度、ほんの数キロの試乗をしてすぐに購入を決めた。イモラ2ののちカリフォルニア2を所有し、2015年まではルマン1000も所有していたが、ルマン1000がGUZZIの中の最高のモデルだ確信していたにもかかわらず、V65のレストアに夢中になってルマン1000を手放した。」

現在、我々の日本の友は15万km走ったカリフォルニアIIも所有している。道具として、信頼できるパートナーとして、そしてとても興味深いことに彼はワィンディングロードでもカリフォルニアを楽しんでいる。
 


 
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「僕のカリフォルニアは実はポリス仕様で、青灯とサイレンまで備えていた。」
 
ーーMassiは説明するーー
 
「ある日のこと、横田のアメリカ合衆国空軍基地の近くを走っていたときモトに乗った2人のアメリカ兵が前にいた。彼らは警官がいると思ったのだろう。法定速度を忠実に守っていた。おかげで僕らは超ゆっくりと走ることになってしまった。あの日ののち、すぐにあの装置たちを取り除いたのさ。」
 
Massiはこんな楽しい話をする。しかしついで真剣な話を始める。彼の国を襲った悲しい部分に話は移ってゆく。
 
「僕のカリフォルニアは2011年の地震と津波のあとも良きパートナーだった。カリフォルニアで荒廃した地域を訪れ、復興を助けるボランティア作業についた。2012年の春には週に1度だけの休日を使って福島への旅を始めた。思うに僕の活動にとって重要だったことは・・・」
 
ーータカヒロは続けるーー
 
「毎回600kmの道のりを通って、それでも6時間シャベルで瓦礫をすくうことができた。僕のGUZZIのおかげだ。」
 
彼は何年かのちに新しいプロジェクトを始める。
ーー彼はこう話したーー
 
「2014年にスクラップになった古いV65フロリダを買って、これをベースにして1台のスクランブラーを作った。現在ブームでよく見るエレガントなスクランブラーではなく、有能で実用的な、オンロードモデルでありながらサイレンサーを高くすることでオフロードも走ることができるモデル[4]をと企んだ。」
 
Massiに言わせるとGUZZIはライダーと親密な関係にあるという。一般のライダーの運転能力とGUZZIのパワーの優れたバランスがあり、しかもその2気筒エンジンは人間の心臓の鼓動と等しいリズムで回っている[5]と主張しているのだ。
 
「GUZZIに乗ると言うことは日本を小さくするということ、なぜなら運転をまったく止めたくなくなるからだ。」
 
と結論している。
 
 
 
【日本のクラブ】
 
モトグッチ・オーナーズ・クラブ・オブ・ジャパンはMOTO・GUZZIの公認の輸入業者の諸井敬商事のもとで1985年8月1日に生まれた。最初の会員は70人だった。日本でGUZZISTAであることはけっこうな変わり者だといえる。というのも多くのライダーはイタリアの鷲はまったくもって異質な魂を持っているとみなしているからだ。
 
「僕の考えでは」
 
ーーMassiは我々に説くーー
 
「互いに似たようなものを作っている日本の4つのメーカーのモデルは、ヨーロッパのモトと比べると強い個性に乏しい。思うに、だからこそ日本のライダーのある程度の割合の者が外国製のモトに魅せられるのは自然なことなのだ。
かつて日本の当局は400cc以上のモトを運転することを熱望する人々にとても厳格な運転技術試験を課していた。そのことが多くの人に小排気量のモトを選ばせる動機となった。こういった背景から日本においてもっとも売れたMOTO・GUZZIは恐らくV35イモラだろう。
あの頃、青や白のモデルもも並べられていたとしても、皆が欲しがったのは赤いGUZZIだった。かつての日本のマニアたちはイタリアのモトは赤に限ると素朴に思い込んでいたのだ。
 
その後当局は日本のライダーがより簡単に上級のカテゴリーの免許を取得できるように運転テストのレベルを下げた[6]。チェンタウロとグリーゾは最初のうちは日本で人気が無かった。しかしそれらの生産が終わった後だいぶ経ってから人気が出てきた。このことは日本人が新しい設計に反応するのが遅いことを示している。
近年はV11シリーズとV7シリーズが日本のGUZZISTA人口を増やすのに貢献した。」
 


 
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【私のマンデッロ、出会い】
 
「あの時、工場の前で君に会うことができて本当に嬉しかった。」
 
ーーMassiは私に語るーー
 
「君以外にもたくさんのGUZZISTIに出会った。中でもMOTO・GUZZI・WORLD・CLUBの会長マリオ・アローシオに会えた。
マンデッロでは夢の5日間を過ごした。ギザッロの聖母礼拝堂を訪ねたり、レッコからヴァルサッシーナへとツーリングしたり、その際にエィジノ・ラーリオまで足を延ばすことを勧められた。その地域の眺望はともかく素晴らしく、本当に行ってよかった。
 
日曜の昼はGUZZISTIが集う場所、リストランテ・アル・ヴェルデに向かったが[7]、登る道を間違えた。僕は道を戻り、とある家の前でおしゃべりをしていた人々に道を尋ねた。僕が困っているのを見て1人の男性がスクーターに乗り込み親切にもリストランテまで連れて行ってくれたのだ。彼はリストランテの前から小さな谷の向こうの一点を指さしてあそこが彼の家だと教えてくれた。そして以前はMOTO・GUZZIで働いていたのだと付け足した。日曜の昼なのに彼の親切はありがたかった。
 
ミーテイングでは、クラブ・ヴェッキエ・ルオーテ・デル・ラーリオのカルロ・マリアも彼らのイベントへ招待して参加させてくれたのでとてもよく覚えている。イタリアに行ったのを機に、アマトリーチェの震災のあとだったので、我々のクラブの会員が哀悼のシンボルとして作ったオリガミ[8]を持って行った。現地の市長にオリガミを手渡してくれたテルニ在住のジュゼッピーノ・プロイエッティに感謝します。本当に敬服すべき行いです。」

【東洋から見たイタリア】
 
「国の違い、社会の違いがあるが、根本的には人間の違いだろうと言いたい。僕にとってイタリア人はアイデンティティーを強く持っているように見える。大きな信念を持っている。例えば君たちは地域ごとの伝統的な料理を保護して、誇りを持ち、愛している。」
 
ーーMassiが話すーー
 
「日本にも伝統的な料理はあるが、我々はそれに手を加えるのも好きだ。我々には創作という名のレシピの変更をよくやる悪いクセがある。
30年以上前、東京にとあるレストラン・チェーンがあった。僕はまだ学生で、ある日生まれて初めてスパゲッティ・カルボナーラを注文した。だけどこれにはたくさんのほうれん草やキノコやタマネギも使われていたのだった[9]。同じことがワインにも起きる。あるイタリアワインの本を持っているのだけど、その本からそれぞれのワインに使うぶどうの種類が定義され、その比率や製造の方法が厳格な規格によっていることを知ってとても驚いた。日本にはサケの藏がたくさんあるが、みなそれぞれの地域に供給するために風土に調和するようにそれぞれの判断で作っている。」

これはときたまシェフの帽子をかぶるためにヘルメットを脱ぐMassi[10]の説明です。
 


 
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【夢の旅】
 
「とても実現できないようなことはあまり夢見ないようにしている。ただ以前一度、世界一周ツーリングをやった知り合い[11]がイタリアへのツーリングを勧めてくれたことがあった。もし安心して一定のスピードで旅ができるユーラシア・ハイウェイのようなルートが現存してたらウラジオストックからイタリアまで走りたいな。」
 
親愛なるMassi、それは夢に終わるよう運命づけられたよ。なぜなら我々の大陸に戦争が起きてしまい、そこの住民の人生と夢をめちゃくちゃにしてしまっているから[12]。終
 
<注釈> 
1:モト = モーターサイクル、オートバイ
2:エマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローデイ通りの赤い鉄柵 = MOTOGUZZIの工場の旧正門
3:GUZZISTA = GUZZIに乗るライダー(GUZZISTIはその複数形)
4:モデル = オフロードモデル出現前の60年代に作られていたスクランブラー
5:心臓の鼓動と等しいリズム = 以下参照「GUZZI・TEMPO」
6:運転テストのレベルを下げ = 「免許を取りやすくなった」がこのように解釈されました
7: 2022bicilindrica06.jpg
  文中マンデッロ周辺の位置関係です
  アル・ヴェルデは山の中腹にあります
8:オリガミ = 千羽鶴のこと
9:カルボナーラ = 本来野菜や生クリームは使わない。本来は卵黄、チーズ、塩漬豚肉、白ワイン、塩胡椒のみです
10:実はこの部分正確に訳せてないのですが、私がSNSに料理の写真を載せているのを知っているロベルトのジョークだと思います
11:知り合い = メンテナンスブックの撮影・編集をしてくださったカメラマン河合宏介氏
12:ロベルトにインタビューの回答を送ったのは2021年の夏でした
その後まさか戦争が起きるとは・・・ロシアにも知り合いのGUZZISTAがいますが2月26日以降SNSへの書き込みがありません
 
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ロベルトの15項目の質問に返答したのですが、その何分の一かが使われています。誌面の都合で多くを割愛したのでしょう、こんな表現になったか、これはこういう感じじゃないんだけど、また文脈がもうひとつ繋がらないとかありますが、皆様もお目こぼしをお願いいたします。
 
日本にもたくさんのGUZZISTAがいるなか私に白羽の矢が立ったのはまあずいぶんラッキーなことだったなと思いますが、私個人としてはよき101周年記念となりました。
シェフ・Massi(笑)


mas 

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1年延期

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2021年9月に計画されていた100周年のGMG(giornate mondiali guzzi=モトグッチDAY)。モトグッチ・ワールド・クラブから参加確認を求められていたこともあって、モトグッチ・オーナーズ・クラブ・オブ・ジャパン会長共々8月の初旬あたりまでは「行ける状況であれば参加しよう」と考えていました。ただしワクチン接種済みであればイタリア入国時は何もないものの、日本帰国時には2週間の隔離義務があるので「そこが悩みどころですね〜」、などと話していたのですが、そのうち日本だけでなく世界的にCOVID19を取り巻く情勢がみるみる悪くなり、ついにGMGの1年延期が発表されました。行くか行かざるか悩む必要がなくなりまして残念やらホッとするやら(笑)



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世界中からグッチスティを集めることはやめたものの、現地では静かにモトグッチの100周年を寿いでいるようです。写真はマンデッロの10kmほど南にあるこの県の中心都市レッコで公開された24時間鑑賞可能(夜はライトアップ)の展示です。
「モトグッチの神話を写真で巡る旅」 モトグッチの軌跡を示すたくさんのモノクロ写真と、コモ湖畔でモトグ
ッチの歴史的モデルを撮った美しい写真が並べられています。



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マンデッロ・デル・ラーリオ市の実行委員会もイベントを実施予定です。パンフにQuattro chiacchiere と書かれていて「雑談しようぜ」という感じのイベントのようです。
 
6日20:45〜(現地時間) ルマン850〜1000ccの開発に関わった関係者による「雑談」(トークショーですね)。Lecco FMのストリーミング視聴が可能です。
 
7日21:00〜(現地時間) 市庁舎が面しているカヴール通りでの100周年壁画の除幕式 人を集めずにLecco FMでの視聴のみのイベントです。
 
8日20:45〜(現地時間) 3冊のモトグッチ100周年本(ピアッジオ監修の本ではありません)の関係者たちによる「雑談」。Lecco FMのストリーミング視聴が可能です。
 
10日20:45〜(現地時間) レッコの若き映像作家ユーリ・パルマによるモトグッチ100周年に向けたフィルムの上映。Lecco FMのストリーミング視聴が可能です。
 
10〜12日 「モトグッチ 家族の歴史」中学生たちによるインタビューや写真を集めた展示。入場にはワクチン接種証明書の提示が必要
 
11日 ミラノの東の郊外のモーターサイクリストたちのドキュメント・フィルムの上映。
 
日本では時間帯が早朝になりますが、ストリーミングで見られるものもありますのでよかったらご覧ください。



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近づく100周年の記念の日に向けてイベントの知らせが届く中、何日か前にヘリポート上の画像がネットを駆け抜け、世界(と言ってもモトグッチ界に限るのかもしれませんが)をザワつかせました。ついで各メディアがスクープと報じ始めました。モトグッチV100スポーツツアラー現る!V100というのは1000ccということです。ただ何故1200や1400ではなく?あくまで100周年に合わせたかったのでしょうか? ちなみにSport tourerが正式なニックネームかどうかはまだ不明です。


  
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モトチクリズモ誌が速報で書いたところでは、Vバンク内側に吸気系、シリンダー外側に排気系、液冷、110馬力、という情報でした(120馬力と書いているところも)。それにしても馬力などが伝わっているわりには微妙にピントが合わない画像ばかり出回ってるのは・・・・・・ちょっと話題作りはするけど本番までは全てを明かさずというメーカーの意向を受けてのことなのでしょうか(笑)。
 
このボケ画像を見ると、片持ちスイングアームのように見えます。が、なんだかファイナルギアケースが小さくないか? ドライブシャフトが左側にきているのであればミッションも完全に新設計。ではセルモーターは? ミッションケースの下にはチャンバー兼キャタライザーのようなものが見えます。液冷になったのは、厳しいエミッション規制をどこまで空冷ビッグボアエンジンでクリアしてゆくのか楽しみにしていたので少しさみしくはあります。いずれにせよこの画像の雰囲気ではまだ開発途上にあるようですので細部がどんどん変わってゆくかもしれません。当初GMGで発表する予定だったのかわかりませんが、いずれ11月25日に始まるEICMA、ミラノモーターサイクルショーにて明かされるのではないかと思います。
 
ただ、今の時点でも言えることは、吸気をVバンク内側に、排気をシリンダー外側に配置したということはDOHCにしたいからだろうということです。なぜならそうすればカムシャフトの駆動はクランクシャフトからチェーンかベルトで簡単にできるからです。今の吸排気方向のままだとベベルギアでもつかわないと不可能です。確か1996年のモトグッチ・ディのときにこのレイアウトのエンジンを路上展示してたカスタムビルダーがいました。エンジンの音も聞かせてもらったものです。さすがに音は忘れちゃいましたがあれから25年・・・・・などなど思いを巡らせつつ発表の日を待ちたいと思います。


mas
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基本のひと手間

オイルプレッシャーランプがチラつくというV10チェンタウロ。見るとアイドリングでチラチラ不安定に点滅し、回転をあげるとユラユラと消える。これはまずオイルプレッシャースイッチの故障か・・・・と交換すると、アイドリングではっきり点燈して、2300rpmほど回すとスパッと消えるようになりました。
 
スイッチが劣化していたのは間違いないようですが、アイドリングから2000rpmほどの間は本当にオイルプレッシャーが低いようです。完全に点燈しているので長い信号待ちしている間にメタルなどが傷むという恐れもあります。


 
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オイルポンプは作動しているので低回転時に少ないとすれば摩耗など考えられますがオイルポンプの摩耗でここまでになるのはまだ見たことありません。あとはオイルプレッシャーレギュレターの故障か、オイルラインの入り口の詰まりか、まさかオイルフィルターがゆるんでいるか?
 
と想定しつつチェックを始めたら、なんとオイルフィルターのゴムパッキンが一部ちぎれて外れていたのです。ここからオイルがビュービュー噴き出していたということです。ちぎれた部分はフィルターの外に落ちていました。恐らくはフィルターをネジこむ際に外側に押し出されて、最後はフィルターのエッジに切られたのでしょう。
 
通常こういう時はゴムパッキンにオイルなりグリスなりを塗ってから組むものですが、誰か知りませんがきっとそれをせずネジこんだので相手側アルミケースとの摩擦でゴムパッキンが押し出されたのでしょう。ひと手間抜いただけでエライことになります。今回のチェンタウロはエンジンから異音がしませんでしたので、ランプは点いたけどオイルは少しは回っていたのでしょう。危ない危ない。


  
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もはや原因はわかりましたが、念のためにケース内をスコープでチェックしました。上の画像でモニターに写っているのがオイルプレッシャーレギュレターです。オイルライン脇にセットされていてエンジンの回転が高まってオイルプレッシャーが必要以上に高くなってしまわないよう、内臓のピストンを押さえているスプリングよりオイルプレッシャーが高くなったら縮んで外にオイルを逃がすようになっています。もしかしたらこのスプリングが折れて?という想定もしていたのですが、いろいろ開けることなく原因解明できて良かったです。
 
ホント、なんてことないようなひと手間でも意味のない手間は無いと改めて痛感しました。日常それを忘れないよう自分にも言い聞かせないとです。
 
mas

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初見

初めて整備させていただくお客さまのモトグッチで、特に車検やエンジンを下す必要がある整備などで広範囲を見ることになる場合は整備が想定通りに進まず、やたらと時間がかかることがかなり多くあります。
 
ずっと手をかけていないがためにボルトが錆びていたりネジ山を壊したままだったりして、外したり修正するのに時間がかかる。前に整備された方がボルトのネジ部にスレッドコンパウンドやモリブデンスプレーを、せめて防錆潤滑剤でもシュッとスプレーしておいてさえくれたら防げることが多いのですが。また、漏れを止めるために、または古いガスケットを使うために、やたらボンドを塗りたくったりしてその掃除に時間がかかる(ちなみにオイル漏れ箇所に上からボンドを塗っても漏れは止まりません)。オプションやETCの配線が雑だったり、整備のために外さなきゃならないパーツにまで配線が貼ってあったり。または汚らしいつぎはぎの配線の整理に時間がかかる。お客さまをお待たせする言い訳で書いてるのではないのですが、こんなことで納期が遅れることがままあります。


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あとは無整備状態が長く続きすぎて深まった損傷の修復もあります。この画像がそのひとつのパターンです。
 
2バルブ、1100ccのモデル。ロッカーアームとバルブステムがそれぞれ偏摩耗しているのがわかります。ロッカーアームとバルブステムに凹みができたままにシックネスゲージ(すき間測定器ですね)でバルブクリアランスを計っても正しい数値は得られません。たまにバラしてロッカーアームとバルブステムの当たる面を平らかに戻す必要があるのです。
 
こういう摩耗のこまめな修復をしていないばかりか、シリンダーヘッドカバーのボルトも固着気味だったので、もしかしたらいままでここを開けてバルブクリアランスを調整したことすら無かったのかもしれません。

 
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結果バルブクリアランスの調整をする前に、ロッカーアームとバルブステムにできた偏摩耗(今回の場合はけっこうな溝と言うべき)を修正するところから始めなければならなくなりました。オイルストーンでコシコシコシコシ溝が消えるまで削るという、とても地道な作業が続きます。
 
こういった無整備放置による損傷や先に書きました様々な手直しがあると既定の作業時間では収まらず、収まらないばかりか倍の時間がかかることもありまして(工賃は既定の作業時間を元に算出されています)、「当社初回整備準備」という請求項目を作ったほうがいいのではないかと悩んでしまいます。
 
ついでにもうひとつ、タペット音を消そうとしてバルブクリアランスを規定値より狭めていく方もいらっしゃいますが、規定値より狭すぎると油膜切れを起こして接触面にピンホールなど損傷を生じさせます。メーカーの規定値を舐めてはいけませんよ。
 
mas

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ガソリンタンク

このコロナ自粛の中モトグッチリパラーレも営業自粛したり時短勤務になったりとしたのでゴールデンウィーク+αの時間ができまして、かねてから考えていた自宅の災害対策を進めたりしておりました。たとえば昨年の令和元年台風のとき多くの方がやったのではと思いますが窓ガラスに段ボール等を貼って割れたガラスの飛散防止がそのひとつ。強風や台風の予報のたびに段ボール等をかき集めるのも手間なので(気候はますます荒れて強風の頻度もあがるかもしれませんし)、ホームセンターでプラスチック段ボールを買ってきて窓のサイズに合わせてカットしました。
 
その他いろいろやったのですが、少々出費を伴ってしまったのはポータブル発電機の購入です。停電時に地域でガソリンを持ち寄ってスマホ充電スポットを作れたり、真夏の停電時はせめて扇風機を回したら避暑寄り合い所を作れるのではと思いまして。
ということで届いた発電機の試運転も無事済ませて、しまい込む前にタンクのガソリンを抜いて、さらにガス欠ストップするまで発電機を回しました。一度カバーもあけて内部のガソリンも全部抜けるかどうかチェックしようと思っています。毎週使うものならともかく次にいつ使うかすらわからないので、やはりガソリンの入れっぱなしはよくありませんから。


 
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さて、ここ数年と言ってよいでしょうか、インジェクション車(もちろんモトグッチの)の燃料フィルターの詰まりや燃料ポンプの故障というトラブルが散見されるようになりました。それらフィルターの中には錆びのような粒子状物質が詰まっていたり、ポンプにはフィルターを通り抜けてしまった微細な粒子状物質が堆積して回らなくなっているものもありました。フィルターは定期交換部品ですからまだよいとして、ポンプの交換は痛い出費です。
この原因は・・・・・よく言われがちなのは?「タンクに水が入って錆びた」。そうですね、モトグッチもインジェクション車からでしたか、エアプレーンタイプのタンクキャップが使われ始めて、その初期のころのキャップは開閉時に水が入りやすく、入りやすいがゆえに設けられていた水抜き用のドレンパイプも詰まってしまっていてタンク内に水が入ったという事例もありました。その後改善されて水が入りにくい形状のキャップが使われるようになりました。
 
ただ、「粒子状物質」と変な書き方をしたのはわけがありまして、粒子状物質は錆びだけではなく、色からして錆びではないと見受けられるものもあるからなのです。そして実はそれは、ガソリンがイタズラしたことが原因である可能性があるのです。
「タンクの中が錆びないように常にガソリン満タンにしておく」という方はいらっしゃると思います。でもガソリンも長期放置しておくと劣化するのです。なにが起きるのかと言いますと、酸化して蟻酸や酢酸に変化して金属に対して攻撃性をもち、それによってガソリンタンク内部が腐食して粒子状物質(以下、腐食カスとしましょう笑)を生じさせていたのです。長期というのがいかほどのものか?またその他環境などの条件にも左右されるのかもしれませんが、まず、そういうことが起きるのだとご理解ください。トラブル防止のためのガソリン満タンも度が過ぎると結局錆びによるものと同様なトラブルを招くとは皮肉な話です。
また、タンクの錆び対策で水抜き剤を入れることがありますが、書きましたように錆びに思えても違うということがあります。水抜き剤とガソリン酸化防止剤(兼洗浄剤)を混同・誤用してはいけません。対策するにしてもご自分が向き合っているのが水による錆びなのか?腐食によるものなのか?見定めなくてはなりません。
 
実は中古車購入後に不調が起きてお見えになったお客様のインジェクション車でこのようなトラブルが起きていたことがあります。購入後すぐでもあり、もしかしたら前オーナーは不調に見舞われ、その原因が燃料系の詰まりと気づかずにあきらめて手放すに至ったのではと思ったものです。このような次第でモトグッチリパラーレでは近年、整備履歴がわからない(ネットで中古車購入後など)インジェクション車が整備入庫した際は燃料フィルターと燃料ポンプは転ばぬ先の杖で交換することをお勧めしています。
 
ちなみにキャブレター車の場合フロートチャンバー内に微細なカスが若干溜まっているのを見ることはありますが、それが堆積して詰まりを生じてトラブルに至ったということは稀ではないかと思います。
そのかわりフュエルコックが詰まった事例はありました。コックの上についているフィルターが詰まったのではありません。フィルターを通り抜けた微細カスがコック内部に沈殿してガソリン流路を塞いでいました。


 
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こういったトラブルを防ぐ狙いもあったのか、モトグッチの近年?のモデルのガソリンタンクは樹脂製になりましたが、金属製のタンクの場合は空にしておくのも錆びそうでなにか不安だし、かといってガソリン満タンにして長期放置してもいけないならどうすればっ?・・・・・大きなカスはフィルターが止めます。フィルターを通り抜けた微細カスはエンジンが動いている分には流れていって燃焼室に吸い込まれ、燃焼室内で燃えなくともエキパイを通って外に排出されるということが想像されます。しかし長くエンジンを動かさないとどこか溜まりやすいところに沈殿〜固着を繰り返し積み重ね、ガソリン流路や、それほど内部が狭いわけではない燃料ポンプすら詰まらせたのでしょう。つまり結局のところ適度な期間内に走ってガソリンを新しくするのがベストなのです。
そうは言っても、どうしてもご事情により長期保管しなければならないお客様はどうかご相談くださいませ。ちなみに最初に書いた私の発電機は、分解して極力内部のガソリンを抜いたあと、ガソリンタンクには乾燥剤でも入れておこうと思っています。
 
ところで 、
ガソリン満タンの話のついでに書きますが、整備でお預かりする車両がガソリンほぼ満タンであることがままあります。自動車整備業ですので仕方がないものの、工場内の総ガソリン量があまりに多いのも気味が悪いものです。ガソリンタンク満タンなのは恐らく最後に乗られたときに満タンにしてから帰宅して置いておかれたのだろうなあ?と推測しておりますが、たまにトリップメーターが2〜3kmということがあります。ああ、ご来店直前に入れたんだなあ〜(泣)と・・・・・。
整備の際はガソリンタンクをはずすことが多くあります。車検整備や12ヶ月整備のときは必ずはずします。その際満タンで重いタンクを落としてはいけないので、ガソリンを携行缶に移してから運搬しています。タンク落下、ガソリン劣化、こういったさまざまな要素から、不要不急のガソリン満タンは避けていただければ幸いです!
 
mas

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シールテープ

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以前からよく見かけていたのですが、フュエルコックの取り付けねじ部に巻かれたシールテープ。この部分からのガソリン漏れやにじみに対処したものでしょう。もしかしたらわりと一般化した手法なのかもしれませんが、はっきり言って間違っています。
 
画像の車体ではにじみが止まらなかったことがわかりやすくシールテープが変色しています。まあたまにこういった変色が無い、つまり結果的ににじみが止まっている車体もあることも事実です(ただしシールテープが効いたせいかどうかまではわかりません)。ただそれは幸運だっただけではないでしょうか。
ではなぜこのフュエルコック取り付けにシールテープを使ってはいけないのでしょうか。実はシールテープが有効かどうかはネジの形状によるのです。

 
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手描きで申し訳ありません、上の図をご覧ください。
シールテープによるシーリングが有効なのはテーパーねじのほうなのです。図では4山のめねじに4山のおねじを差し込んでいくイメージです。黒い矢印は締めこんで行く方向です。テーパーねじは締め付けの序盤ではゆるゆるで、終盤にめねじとおねじの面がピタッと合うように作られています。その接触面積が広いので耐密性が高いのです。ただ隙間がまったくゼロというわけにはゆかず、そこを補助するのがシールテープなのです。
 
一方平行ねじ(一般的なねじ)は、めねじよりおねじのほうが少し細く作られています。考えてみてください、もしきっちり同じ径(もしくは極めて近い径)で作られていたら摩擦が大きすぎて入っていくことも困難なのです。適当な隙間があるのでするすると入ってゆき、ボルトあたまが着座するとボルトあたまの方向(矢印A)に引っ張られるので、めねじとおねじの片面(図では右側)が密着するのです。ただし、この図ではわかりやすく大きめに描いていますが、密着した面の反対側の面には隙間ができます。これを立体化するとらせん状の隙間(つまりらせん状の通路)となるので耐密性は期待できません。

 
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ですので、平行ねじの場合はガスケットを使う必要があります。
上の画像はフュエルコックに使われているガスケットです。ナットの中で2つのパイプにはさまれています。燃料タンク側のパイプには正ねじが切られて、コック側のパイプには逆ねじが切られているのでナットを締めこんでゆくと2つのパイプがより密着してガスケットを強くはさむ構造になっています(この画像では上下ともフュエルコックのねじ部を撮っています)。この構造での漏れやにじみが出たときの正しい対処法は、「ガスケットを点検・新しくする」「ガスケットが接触するパイプ面に異常がないか点検・修正する」「ナットに割れがあったりねじが傷んでいないか点検・新しくする」となります。

 
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もし、ガスケット・パイプ・ナットに異常があったら、いくらシールテープを巻いても漏れ・にじみは止まりません。上の図で説明します。
ナットを締めこむと左右2つのパイプ(タンク側とフュエルコック側)は矢印Bの方向にはさんだガスケットを圧縮しようとします。それによって耐密性が高まるのですが一方、両パイプのねじはナットのねじに矢印Cの方向に押し付けられるのでねじ山の反対側(図では内側)に隙間ができます。この隙間はテーパーねじのものよりも大きいので、もしガスケットなどに異常があってガソリンをシールできていなかったら、構造上シールテープを巻いたくらいでは対処できないのです。「ガスケット面でシールする」という、構造に即した対処をしましょう。
 
ちなみになぜこのフュエルコックに耐密性の高いテーパーねじを使わなかったのかというと、テーパーねじがキュッと締めてゆくほど耐密性が高くなる反面、適当なフュエルコックの向き(角度)で止まらない可能性が高いためでしょう。平行ねじならナットのみを回して締めこめるので、フュエルコックを任意の角度で取り付けることができるのです。 
 
mas

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ゴクミ

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V11のファイナルケースです。クラッチ等の整備のためにエンジンを降ろすべく作業していましたら、ファイナルミッションのピニオンシャフトが振れてしまっているのを発見したのです。
 
画像は一度ケースや各パーツを分解・洗浄したのち、位置関係がわかりやすいように仮組みしたものです。ケース内にギアが見えていますが、これがピニオンシャフトです。


 
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さて・・・・・・・なんでこんなになっちゃったのだろう・・・・?と思いつつふと見ると、なんと答えは簡単なものでした。うっかりミスで生じたダメージは大きいものでしたが。
 
画像左端をご覧ください。ドライブシャフトの両端に設けられた2つのカルダンジョイント(ユニバーサルジョイント)の角度(位相)がずれて組みつけられていたのです。カルダンジョイントは十字の軸を4つのベアリングがホールドしていて2つの角度の異なる軸の回転力を伝えることが出来ます。
画像のドライブシャフトは奥がトランスミッション側で手前がファイナルミッション側です。本来は画像中央のように2つのカルダンジョイントの位相を揃えて組まなければならないのですが、画像左端のようにスプラインで接合しているので間違って組むこともできてしまうのです。
 
表題のゴクミはもちろん元アイドルの彼女のことなのではなくて「誤組み」という意味なのでした。


 
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後ろ側、ファイナルミッション側のカルダンジョイントと、手元にあった850ルマンのダブルジョイントを並べてみました。ダブルジョイントから2つのカルダンジョイントの位相が揃っているのがわかると思います。
 
ちなみにこの部品はユニバーサルジョイントとも呼ばれるのですが、モトグッチ社のパーツリストではGiunto Cardanico カルダンジョイントと書かれています。これは1500年代のイタリアの数学者Gerolamo Cardano ジェローラモ・カルダーノが2つの軸の角度が異なっても回転運動を伝えられる機構の原型を考案したことに由来しています。この発明が後年、シャシ上にエンジンやモーターがあって駆動輪はバネ下にある自動車や電車の発達に寄与するなんてカルダーノ氏も夢にも思わなかったでしょう。ちなみにユニバーサルジョイントという名称はアメリカで1884年に降りた特許で使われていたのだそうです。
 
さて、問題はカルダンジョイントは2つの軸、入力軸と出力軸の角度差がついても回転を伝達しますが、実は等速で回るのではなく360度回転するうちに増速と減速を2回づつ繰り返すという性質があります。そして2つの軸の角度差が大きくなると周速度の差も大きくなるのです。つまり不等速ジョイントなのです。身近なもので竹などでできたヘビのおもちゃみたいなものしか思いつかなかったのですがアレは十字構造になっていません。同じ構造のジョイントを回転させるとき、クリックリッと重い箇所があるのですがイメージできますか?(←ほかに実例探し中です。解りやすい例がありましたら教えてください!)


 
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不等速のカルダンジョイントを2つ使用し、生じる増速・減速を相殺して(片方のジョイントが増速するときにもうひとつのジョイントは減速すればよい)入力軸と出力軸の回転を等速にすることで、さまざまな用途に用いられることができます。まさにモトグッチのドライブシャフトでも、走行中にサスペンションが作動しスイングアームが動いてトランスミッションとファイナルミッションの位置関係が変化しても、しかも4輪のFR車などと比べて極端に近い為に、より以上角度がついても安心なのです。(スイングアームが動くと同時にトランスミッションとファイナルミッションの距離も変化していますが、分割式ドライブシャフトのスプラインが自由に長さを変えて対応します)
 
 
上の最後の画像は一番奥のニードルベアリングのインナーレースが磨耗してしまった様子です。ファイナルミッションのピニオンに、間違って組まれたダブルジョイントによって増速・減速の繰り返しつまり脈動が起こる。なぜ減速時があるかというとその回転位置で抵抗が生じているからであって、周速度が落ちるほどの抵抗があるなら出力軸に対して、抵抗が少ない角度差に戻そうとする(2つの軸がまっすぐになるように)力が働きます。そのせいでピニオンシャフトが振られてベアリングの破損にまで至りました。ベアリングは全て交換しましたが、小さくて一番弱い、また軸の先端にあるニードルベアリングがもっともわかりやすく磨耗・破壊に至ったのでした。
 
ついでにですが、V11までのファイナルケースのピニオンシャフトは相対する2つのテーパーローラーベアリングで保持されていましたが、V11ではボールベアリングとローラーベアリングの併用になりました。これは新作だった6速トランスミッションと同様にホイールベースを短くするための設計だと思われます。結果併用する2つのベアリングの距離が短く振れがおきやすいことを想定して奥にニードルベアリングを設置したのでしょう。さすがにゴクミは想定外だったと思いますが・・・・・。
 
 
mas


 
 

V65 再生記 <番外の3>マンデッロ周辺ツーリング

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これまでモトグッチ95周年のラドゥーノの様子をお伝えしましたが、その前後のV65スクランブラーでのツーリングのことも少し紹介させていただきます。ただし、今回はマンデッロ・デル・ラーリオの滞在を5日間と長くとったので、ツーリングもあまり大移動はせずにマンデッロ周辺をあちこち走ってみようと考えました。
 
まずはイタリア到着の翌日、金曜日の昼過ぎにマンデッロに到着し、V65を箱から出して準備整った午後3時ころ、レッコ湖をはさんだ対岸のギザッロ峠を目指しました。
前回15年前にカリフォルニアで走ったときは湖岸をトレースして行ったのですが、今回はマンデッロの少し北に位置するヴァレンナから出るフェリーに乗りました。
 
フェリーは15分ほどで対岸の高級リゾートであるベッラージオへ到着。ここは実はスターウォーズシリーズでロケ地に使われているのです。知ってました?探してみてください!
ベッラージオから南に峠道を登ってゆくと、やがてギザッロ峠にたどり着きます。かつてオートバイレース「ジロ・ディ・ラーリオ」の名所のひとつですが、自転車レース「ジロ・ディ・イタリア」の関わりの方が日本では有名かもしれません。この峠に建つ聖母礼拝堂は自転車乗りの聖地、堂内にはいにしえからの自転車のトップレーサー達のジャージが飾られていたりします。数年前建設途中だった自転車博物館も完成したようでしたが、すでに夕方で閉まっていたのは残念でした。
 
ギザッロ峠からの降りでは観光バスがヘアピンカーブに座礁していました(笑)
実は15年前にギザッロに来た時も狭い道でバスとトラックがすれ違えずに30分ほど停滞したのです。ここに来るといつもバスが座礁している・・・・・。でもおそらく今回この停滞のおかげで帰りのフェリーからは美しい夕焼けの風景も見ることができたのでした。


  
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ラドゥーノ本番の土日はイタリア中、いや世界中からグッチスティが到着するので主要道路は大混雑します。この2日間はマンデッロの外に出ないほうが無難なので、せめて昼ごはんに街の背後の山の中腹にあるリストランテに行くことにしました。
 
そこはだいぶ昔ですがモトグッチの重役の方にクルマで一度だけ連れて行ってもらった山荘をかねたリストランテ。日本である程度場所を調べて行ったのですが、案の定迷ってしまって・・・・・これぞ!と登っていった道は市の共同墓地を行き止まりに終わってしまいました。
これは諦めるしかないか、と降る途中に道を尋ねてみた相手がなんと休暇中のモトグッチ社の社員の方で、彼がスクーターでリストランテまで連れて行ってくれたのでした。店の入り口で谷をひとつ隔てた向こうの集落を指差して「ほら、あれが僕の家だよ」って。最初の道はまったく見当違いだったのに、いい方に出会いました。
 
リストランテの名は「アル・ヴェルデ」
モトグッチの背後にそびえるグリーニャ山を眺めることができる絶好のロケーションのうえ、モトグッチとの関わりも深く古い様々な写真も見ることができます。ほかにもたくさんのグッチスティがやって来ていました。
 
ここでのオーダーは地元ロンバルディアの生ハムブレサオーラにマンデッロの友人から教えられていた地元料理のクルミのソースのラビオッリ、やはりクルミソースの牛肉のソテーも頼みました。それと僕は飲めないのですが同行者のためにハウスワインの赤を一杯・・・・・
なのに、ほどなくワインボトルが運ばれてきたのです。カメリエーレに「グラスを注文したのだけど・・・」と質すと「グラスでもボトルでも値段は一緒ですからご自由に飲んでください」って!!!しかもそのワインは冷やされた微発泡の赤でとっても旨かったのです!すみません、一滴も飲まなかったとは言いません。ちょっぴり、ちょっぴりだけ味見しました。この旅で唯一残念なことはこのワインをたっぷり飲めなかったことです。
 
日本に帰ってから記憶を頼りに調べました(笑)。ボトルには店の名の「AL VERDE」というラベルが貼られていましたが、たしかロンバルディアのDOC(ワインの規格です。ボトルネックのシールでわかります)であって、さらにどこかにバルベーラ(種)と書かれていました。よって、たぶんオルトレポ・パヴェーゼ・バルベーラ・・・日本で探してみます!!!


 
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続いてラドゥーノが終わった月曜日、午前中は湖岸にて月曜日だけ開かれるメルカート(市場)をうろうろ散歩&夜のバーベキューの買い物などして(肉・生ハム・サラメ・チーズ、とんでもなく安いです)、11時ころ昼メシツーリングに出かけました。目指すはモトグッチ社の背後の山グリーニャの向こう側にあるバッラービオです。V11シリーズにもこのネーミングがありますね。
 
いったんレッコに南下して谷あいの道を北上します。このあたりの土地をヴァル・サッシーナ、サッシーナ谷と言えばいいのでしょうか? <動画>山々が美しい風景のなかをゆく谷あいのルートなのです。 ←10年以上前のボロいコンデジでなんとなく撮ったのであまりキレイではありませんが・・・。
 
やがて到着したのはアルヴァという・・・・・・なんと言ったらいいのでしょう?食肉加工品工場であって、かつ街道のドライブイン兼お土産屋さんみたいなとこ。と書くとずいぶん安っぽい感じですが、中は牛や鹿の剥製なんかが飾られた山荘風。ここのパニーニが絶品だと聞いてやってきたのです。
ここのパニーニ・ピウマ・インペラトーレ、皇帝も愛したイベリコ豚(しかも羽根のように柔らかい)のパニーニは、注文するとなにかタレに浸けてあったショーケースの生肉を薪がガンガン燃えるオーブンで焼いて、パンにはさんでくれます。友人がこの地を離れる前にわざわざ食べに来るというだけあってとても美味しく、パンからはみ出る巨大で分厚い肉に一瞬たじろぐのですが名前にある通り羽根のように軽く、あっさり食べれてしまうという絶品だったのでした。
 
あとで話したら実は日本好きだというここの若主人ラファエッロさんは謎の東洋人が入ってくるなり店の一番自慢のメニューを注文したのが嬉しかったのでしょうか「こっちへ来い来い」と店の奥へいざないます。地下へ降りてゆくとサラメやチーズの貯蔵庫に古いワイン蔵、いいものを見せてもらいました。
 
別れ際に行き先を聞かれ、マンデッロに帰ると伝えると「エジーノ・ラーリオを通って行くべきだ!」と力説する彼をあとにしてしばし・・・・・予定外だけど、よし!言に従って道を曲げてみたのでした。


 
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再び谷あいの道を北上することしばし、教えてもらったエジーノ・ラーリオを抜けてマンデッロに戻るルートへハンドルを左に切ったのでした。谷あいの道から離れて山道を少し走ったらもうさっきまでの道を見下ろす標高に達しています。小さな集落に小さくても美しい教会が静かに建っている。もうこれだけで「来てよかった〜」と思えるシチュエーション。
 
さらに標高をあげて稜線に出るとなかなか素敵な景色が待っていました。尾根の上、下界を見下ろす丘の下にヤマハ号が1台たたずみ、その丘の上の芝生にくつろぐカップルが見えました。女性のほうがこちらに手を振っています。こんな散歩ツーリングコース、ええなあ〜〜〜〜。ここにアップした画像はほんの一部です、本当にいいコースでした。いつの日か、日本のグッチスティの皆さんもぜひ走ってみてください。
ちなみにマンデッロに住むこの地の出身者にあとで聞いたところでは、エジーノ・ラーリオはモト・ジレラの発祥の地だそうです。元はスキーリフトのエンジンを造ったのがジレラの始まりだったそうです。
 
行き当たりばったりの望外の景色をたっぷり味わって、中腹の集落にみつけたバールでジェラートとカッフェの小休止。そしていよいよレッコ湖への降り道です。つづら折れをぐんぐん降りレッコ湖岸のヴァレンナの街が徐々に近づいてきました。<動画>西向きの斜面の家並みを縫ってひたすら降りてゆきます。そして南へ10km走ればマンデッロ。このせいぜい50kmのツーリングで今回の走り納めとなりました。
 
今回の旅では情報やら道案内やら地元の皆さんにいろいろ助けていただきました。しかも自分の足が無かったらとても行けないところばかり行って楽しんできました。あとなによりラッキーだったのは帰国前最終日のミラノまでずっと晴天だったことです。自分のモトをオーナー以上の経費をかけて送ってしまったのですから、これくらいの幸運に授かっても怒られないですよね?(笑)
 
もし、イタリアでのモトグッチツーリングを考えてらっしゃる方がいらしたらマンデッロ周辺のこんなルートも参考にしていただければと思います。V65 再生記の番外イタリア編、これで終わります。
 
 
 
mas

V65 再生記 <番外の2>モトグッチ95周年

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今回の工場見学は、入り口から奥をのぞきこむ程度で、以前のように工作機械や製造ラインのあいだを練り歩くようなことはできませんでした。なので画像がほとんどありません。
 
上の画像で空き地の光景は<番外の1>の4枚目の画像の黒いアーチをくぐった先のものです。なにかガランとしたちょっと寂しい光景です。かつてここには旋盤など金属加工機械が並んだ部品工場の建屋がありました。私が2度めにマンデッロを訪れた1996年のモトグッチ・デイで、ここに入ると旋盤の1台にやけに長いカムシャフトがセットされてるのをオーナーズクラブジャパンのメンバーが発見しました。「これはV6のカムじゃ?」と、みんなで覗き込んでいると工場のスタッフがやってきて「マセラーティのカムシャフトだよ・・・」と。「おお〜」マセラーティから委嘱されて造っていたのでしょうか?細かいところはわかりませんでしたが、モトグッチの工業力の幅かくあらん!と背景の想像が膨らむひと幕でした。ですがその建屋もいまはありません。
 
この建屋は2〜3年前でしたか、モトグッチがピアッジオ傘下に入ったあと(正確には当時親会社のアプリリアが破綻してともどもピアッジオ傘下に・・・)壊されました。モトグッチの古い資料には年代ごとに徐々に拡張してゆく本社と工場の平面図(や空撮写真)の比較が載せられています。が、恐らくは合理化の名のもとに、長い歴史の中で初めてなにかが削られたことになります。
それにしてもこの広大な面積の建屋にあった工作機械はピアッジオに移されたのでしょうか?この工程が無くなったことによって相当な人員削減も当然あったことでしょう。


 
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上の画像は空き地の写る画像の場所から180度振り返ったところです。小さなステージが作られて、音楽など流れていましたがこれといってプログラムの発表もありませんでしたので、その内容はわかりません。また、V7シリーズなど試乗車が並べられ軽食の出店などもありました。いままで工場敷地内にステージや飲食店が置かれたことはなく(いままで、と書きましたが私が最後に行ったのは10年前、2011年のイベントにはとても行く気になれませんでしたのでその年のイベントの様子は知りません)、一方湖岸の街の公園にはいままで同様大きなイベント会場が作られていて・・・・・このあたり、イタリアに来る前から感じていたいままでとは異なる空気を如実にあらわしていたのです。
 
このラドゥーノに参加するには春あたりから宿泊予約するなど準備を始めなくては間に合いません。ちょうどそのころモトグッチのホームページにも日程などアナウンスが載せられるのです。それが今年は特に記載が無く月日が過ぎていました。
V65輸送の手続きの途中で、イタリアの税関から「参加するイベントの資料提出」を要求された(イタリアに輸入したものをそのまま輸出することを証明して非課税にするため)6月も、マンデッロの複数のモトクラブが連名で主催する「インターナショナル・モト・ラドゥーノ チッタ・デッラ・モトグッチ(シティオブモトグッチ)」が発表したプログラムしか見つけられず、やむなくそれを資料として提出したのでした。
 
それが、もうラドゥーノ来月だよ!というタイミングになってようやくOPEN HOUSE(オペンホウセではありません、笑)の案内がモトグッチのホームページに載せられました。チッタデッラモトグッチとオープンハウス、ふ〜ん、なんだかなあ?と思っていたのが、現地に来てみてわかったのでした。
・・・・・いままではモトグッチ社が主催してモトグッチ・ディやGMGという名称で5年おきのアニバーサリーイベントを催してきました。が、今回はマンデッロにある全てのモトクラブが初めて合同で主催する、言うなれば市民が主催するモト・ラドゥーノだったのです。オープンハウスはそれにあわせて工場等を開放した、ということなのでした。
モトグッチ社はイベントに対して力が抜けちゃったのでしょうか?そのゆとりが無いのでしょうか?それとも元締めピアッジオ様が古いモトに乗ってる連中なんか相手にするなと指導してるんでしょうか?(まさか!)
 
今回私がわざわざモト・ラドゥーノ(訳してオートバイの集会・・・・・なんて言うと違う集会を連想しますが・・・)などと日本では聞きなれない言い方を繰り返しているのはこういう経緯があったのです。もっともイタリアのグッチスティはその昔GMGのころからラドゥーノと言ってましたけど。


 
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また少し、イベントの様子を書きましょう。土曜の夜は9時ころから湖に浮かべたボートから花火を打ち上げていました。日本の花火に慣れた目には小さく控えめな花火でしたがキレイでしたよ!たくさんの酔っぱライダーたちがゆるんだ目を空に向けて花火を楽しみました。
 
市庁舎の前はサーカスのような雰囲気。これはウォール・オブ・デス!あの中をバイクで走り回るのです。モルモットが遊ぶコロコロを横にしたみたいなアレです。常に行列なので見られませんでしたが、ミラノに帰る直前にウォール・オブ・デスのライダーと会いました。「で、モトはなにを使ったの?」「インディアンさ」「あ、そ・・・・・」(笑)
 
この時に機を合わせて発刊された本も売っていました。
GUZZI l'idea che ha cambiato Mandello
グッチ マンデッロに変化をもたらした着想
訳してみるとこういったところでしょうか。モトグッチとマンデッロの深く長いつながりを感じさせずにいられない本です。そしてこれを売ってた売店のおばちゃんが「あなた12月にまた来てね」というのです。「だってこれは1巻よ、第2巻が12月に出るんだから買いに来てね!」なんだそうです・・・・・。無理です。
 
この本にマンデッロの街の名所旧跡のガイドがセットされていました。画像にもあるように街のあちこちに看板もたてられています。靴にからみついた竜のようなのはなんなんだろう?と帰国後に調べてみました。そうしたらマンデッロにもパルチザンの歴史があったのです。登山靴に半ズボンの勇猛な山のパルチザンにからみつく化け物をあらわしていたのでした。
 
1943年9月、イタリア降伏と同盟脱退が露見するとともに侵攻してきたナチス軍への抵抗を宣言したバドーリョ将軍(当時首相、降伏に導いた)に従ったマンデッロの軍人70人、結果捕まってしまうも抵抗を重ね、正規の戦争捕虜として扱われずヨーロッパ各地の収容所で使役にこき使われ厳しい生活条件に耐え、米ソによる解放後もつらい転変の旅を果たして帰国したそうです。


 
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マンデッロ滞在の最終日には幸運にも市長とお話することができました。なんと28歳(以前は21歳の市長もいたそうです!)のリッカルド・ファソーリ市長、午前中からバールで友達とビール飲んでました(笑)
「実は市で運営するムゼオ(モトグッチ博物館)を作りたいんだ。工場は週末は閉まっちゃうからお客さんが入れないんだよ」と、ちょっとした展望も語ってくれました。言外に「モトグッチのほうの方針はコロコロ変わるからさ、自前で対処できるようにしとかないと」というようなものを感じたのは、私の見方がうがち過ぎましたか?
 
小さな街がモトグッチとともに、というのは初めてここを訪れたときから感じていたことです。街中のショーケースにモトグッチ、店の前にモトグッチ、これらの車輌はモトグッチ社から貸与されたんじゃないんですよ!!みんながモトグッチオーナー。ほんとうにモトグッチに対して誇りを持っています。先のパルチザンの歴史にも感じさせる山の民の気骨が「会社(モトグッチはたまたピアッジオ?)ができないなら俺達がやってやるぜ」と今回の街とクラブの協力によるイベント主催を成功させたのかもしれません。
 
あ、こんなふうに書いてるので、誤解が無いように付け加えておきますが、モトグッチVSマンデッロという構図があるかのように見えますが、心配無用です!!モトグッチの従業員はマンデレージ(マンデッロびと)や周辺の街街の方ですし、街のおじいちゃんもおばあちゃんもみんな昔働いていた・・・・・現在の社員に対して我が孫を見るように優しく、後輩に対するように厳しくも温かく接する方々なのです。
それに私が見てきてこうして書いていることも外見的なものにすぎず、たとえば各イベントの資金の出資元もどうなっているか知らないのですから。


 
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最後に今回出あった鷲の仲間たち。100周年にも来るんだろ?と皆に念を押されましたが、ハテ?それまでに今回のローンを完済してるものやら?
 
mas

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